ウルム
アルゴイからの帰り途中にウルムへ寄って行きました。
ウルムの歴史
ドナウ川沿いに位置したため、中世より交通の要所として栄えた。12世紀には、帝国都市としての特権を認められた。1327年にはツンフト闘争を通じて、手工業者が市政に関わるようになった。14世紀後半に成立したシュヴァーベン都市同盟(ドイツ語版、英語版)においては、中心的な役割を果たした。1619年、フランスの哲学者デカルトは、この街の近郊にある炉部屋での思索を通じて、生涯を通じて彼を虜にする「驚くべき学問の基礎」を見出したとされる。
1805年、20万を超えるナポレオンの大軍が、ウルムでオーストリア軍を撃破した。この2ヶ月後、ナポレオンはアウステルリッツの戦いで、オーストリア・ロシア軍に大勝を収めることになる。
第二次世界大戦においては、ウルム爆撃によって、旧市街の80パーセントほどが破壊される打撃を被ったが、大聖堂は無事であった。また、街も戦後に復興を果たして今日に至っている。
以上wikiより引用
ウルム旧市街マップ

地図上の⑥と⑦の間にあるMünster(大聖堂)を中心に見どころが散らばっている。
地図の左端にある Ulm Hbfというのは鉄道駅なので駅からも簡単にアクセスできますね!
ウルムで見かけるスズメ像たち

ウルム大聖堂とすずめの逸話
大聖堂建設に梁を使うため街へ運びこもうとしたが荷車に載せられた梁は街の門の幅より長く街に入る前に立ち往生してしまった。門を壊して梁を運ぶか、、、、、とそのとき一匹のスズメが巣作りのため縦向きにして枝を運んでいた。それを見た人々は梁を縦向きにすればいいのだと、梁の向きを変え無事に街へと運ぶことにしたそうな。
ブタの飼い主”アナタにあげたい”と友好のしるし

ドナウに浮かぶイカダ

Schiefes Haus=傾いた家

ホテルとして宿泊もできるギネス登録されてる家
市庁舎まえの噴水

ラートハウス(市庁舎)

壁一面に描かれた見事なフレスコ画のこの建物は、第二次大戦でその殆どが壊された。現在の建物は古い設計図をもとにオリジナルを忠実に再現したものだそう。
ミュンスター(ウルム大聖堂)

ビルの隙間から見える大聖堂かなり迫力がある
大きさを比較するため人と一緒に撮ったが建物が大きすぎてカメラに収まらないw

中はわりとシンプル


大聖堂の歴史・建築
1377年起工、献堂は1383年。起工はパルラー家初代のハインリヒ・フォン・グミュントによって教区教会堂として行われたが、1392年に市民の威を見せるためとして大聖堂並みの規模にするよう設計の変更が行われた。身廊部はおおむね1420年ごろに完成したが、鐘塔の完成は1890年まで待たねばならなかった。完成はこの1890年時点とされている。第二次世界大戦中ウルム爆撃によって市街の多くの建造物が破壊された際にも、大聖堂は破壊を免れた。ちなみに1529年から1844年まで工事は中断されている。
1377年当初の計画ではハレンキルヘとして設計されたが、1392年の設計変更により3廊式のバシリカ式とされた。1397年、ストラスブール大聖堂設計者の一人であったウルリッヒ・エンジンゲンが総監督に選ばれて、彼とその末っ子であるマテウスが1451年すぎまで造成にかかわった。 身廊は大アーケードと高窓のみの2層式で構成され、天井までは42メートルで、リブ・ヴォールトが架けられている。16世紀には側廊それぞれの中間に柱列をおき、5廊式とした。内陣は身廊部と比して小さく簡素と評される。
以上wikiより引用
大聖堂まえで市場開催

シナゴーク(ユダヤ教寺院)

ダビデ星の窓がある以外はモダンすぎて一見したらどこかのオフィスのよう。
傾いた家付近の水辺が美しい・・・

オシャレなドアノブ

寄り道がてら観光したウルムでした。
これからお家へ帰ります。
ウルムの歴史
ドナウ川沿いに位置したため、中世より交通の要所として栄えた。12世紀には、帝国都市としての特権を認められた。1327年にはツンフト闘争を通じて、手工業者が市政に関わるようになった。14世紀後半に成立したシュヴァーベン都市同盟(ドイツ語版、英語版)においては、中心的な役割を果たした。1619年、フランスの哲学者デカルトは、この街の近郊にある炉部屋での思索を通じて、生涯を通じて彼を虜にする「驚くべき学問の基礎」を見出したとされる。
1805年、20万を超えるナポレオンの大軍が、ウルムでオーストリア軍を撃破した。この2ヶ月後、ナポレオンはアウステルリッツの戦いで、オーストリア・ロシア軍に大勝を収めることになる。
第二次世界大戦においては、ウルム爆撃によって、旧市街の80パーセントほどが破壊される打撃を被ったが、大聖堂は無事であった。また、街も戦後に復興を果たして今日に至っている。
以上wikiより引用
ウルム旧市街マップ

地図上の⑥と⑦の間にあるMünster(大聖堂)を中心に見どころが散らばっている。
地図の左端にある Ulm Hbfというのは鉄道駅なので駅からも簡単にアクセスできますね!
ウルムで見かけるスズメ像たち

ウルム大聖堂とすずめの逸話
大聖堂建設に梁を使うため街へ運びこもうとしたが荷車に載せられた梁は街の門の幅より長く街に入る前に立ち往生してしまった。門を壊して梁を運ぶか、、、、、とそのとき一匹のスズメが巣作りのため縦向きにして枝を運んでいた。それを見た人々は梁を縦向きにすればいいのだと、梁の向きを変え無事に街へと運ぶことにしたそうな。
ブタの飼い主”アナタにあげたい”と友好のしるし

ドナウに浮かぶイカダ

Schiefes Haus=傾いた家

ホテルとして宿泊もできるギネス登録されてる家
市庁舎まえの噴水

ラートハウス(市庁舎)

壁一面に描かれた見事なフレスコ画のこの建物は、第二次大戦でその殆どが壊された。現在の建物は古い設計図をもとにオリジナルを忠実に再現したものだそう。
ミュンスター(ウルム大聖堂)

ビルの隙間から見える大聖堂かなり迫力がある
大きさを比較するため人と一緒に撮ったが建物が大きすぎてカメラに収まらないw

中はわりとシンプル


大聖堂の歴史・建築
1377年起工、献堂は1383年。起工はパルラー家初代のハインリヒ・フォン・グミュントによって教区教会堂として行われたが、1392年に市民の威を見せるためとして大聖堂並みの規模にするよう設計の変更が行われた。身廊部はおおむね1420年ごろに完成したが、鐘塔の完成は1890年まで待たねばならなかった。完成はこの1890年時点とされている。第二次世界大戦中ウルム爆撃によって市街の多くの建造物が破壊された際にも、大聖堂は破壊を免れた。ちなみに1529年から1844年まで工事は中断されている。
1377年当初の計画ではハレンキルヘとして設計されたが、1392年の設計変更により3廊式のバシリカ式とされた。1397年、ストラスブール大聖堂設計者の一人であったウルリッヒ・エンジンゲンが総監督に選ばれて、彼とその末っ子であるマテウスが1451年すぎまで造成にかかわった。 身廊は大アーケードと高窓のみの2層式で構成され、天井までは42メートルで、リブ・ヴォールトが架けられている。16世紀には側廊それぞれの中間に柱列をおき、5廊式とした。内陣は身廊部と比して小さく簡素と評される。
以上wikiより引用
大聖堂まえで市場開催

シナゴーク(ユダヤ教寺院)

ダビデ星の窓がある以外はモダンすぎて一見したらどこかのオフィスのよう。
傾いた家付近の水辺が美しい・・・

オシャレなドアノブ

寄り道がてら観光したウルムでした。
これからお家へ帰ります。
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